【Story】Vol.8 僕と彼女のいわもとQ

文_宇野常寛
2020.05.22

毎日多くの人が行き交う街、歌舞伎町。
あなたはこの街に、どんな思いを抱いていますか?

毎月更新のこのコラムでは、歌舞伎町になじみのある人物に街への愛を語ってもらいます。

第8回目は、批評誌〈PLANETS〉編集長を務め、政治からサブカルチャーまで幅広い分野に精通している評論家の宇野常寛(うの・つねひろ)さん。

当時通い詰めていたという歌舞伎町のあるお店で遭遇した、忘れられない体験とは?

人生初の体験を、歌舞伎町で。

 僕といわもとQの関係は、かれこれ8年前にさかのぼる。それはある週末の夜の23時頃、僕は深夜の区役所通りの路上で、なぜか友人に責められていた。「宇野さん、キャバクラはね、チームプレイなんだよ、分かる?」ーーその夜、僕は友人I(仮名)に生まれてはじめて、キャバクラに連れ込まれ、そしてその結果彼にものすごく怒られていた。いまとなってはどういう趣旨で集まっていたか覚えていないのだけど、その夜僕はデジタルアーティスト集団を率いるIと、共通の友人である当時はまだ某公共放送に所属していたH(仮名)の3人で、新宿のあるバーに集まって話し込んでいた。2、3時間過ごしていると店が混んできたのでとりあえず出たのだけど、解散にはまだ早いと強力に主張するIに連れられて、生まれてはじめてキャバクラという空間に足を踏み入れた。そしてその直後からひどく後悔した。僕はまったくお酒を飲まない上に、タバコが大の苦手なのだけど、その空間ではこの2つがコミュニケーションの前提となっていた。さらにその上にそもそも、何の必然性もなく、初対面の女性と雑談するということがまったく楽しめなかった。仕方がないので、せめてこの時間を有意義に使おうとiPhoneでヤフーオークションを開き趣味の模型の出品状況を確認していたらIに、ちゃんと会話に参加しろと言われてしまった。ちょっとムカついたので、こいつは情熱大陸とかに出ている有名人で、こいつは某公共放送の11時の番組でニュースを読んでいるんだと席についていた女性たち教えてあげたら、わー、すごい、あ、たしかに観たことあるかもー的な展開になって、ふたりともすっかり鼻の下が伸ばせなくなった。ざまあみろとほくそ笑んだものだのだけど、その結果店を出た途端にIに説教を食らう羽目になった。

 このままだとケンカになると思ったのか、Hがそういえばちょっと小腹がすいてきたなと口を挟み、するとIが「いわもとQに行こう」と言い出した。最初僕はそれが立ち食いそば屋の名前だと分からなかったので、オウム返しに店名を尋ね返した。「宇野さん、歌舞伎町であそんだらいわもとQを食べないとダメだよ」とIはなぜか自慢気に述べた。それが、僕と「いわもとQ」との出会いだった。いわもとQーー歌舞伎町、西池袋、そして高田馬場の栄通りなど、都内でも治安と清潔さとそこにたむろする人間の平均的なモラルが極めてアレなエリアにばかり出店する立ち食いそば店である。僕はその夜をきっかけに、このいわもとQの蕎麦に夢中になった。いわもとQの売りは自社開発の麺と揚げたての天ぷらだ。プロの作った作りおきよりも、素人の作ったつくりたての蕎麦のほうが美味いーーシステマティックに提供される立ち食いの「できたて」こそがもっともコストパフォーマンスのよい蕎麦になる。それが「いわもとQ」を運営する会社の創業社長・岩本浩治さんの思想だ。なんで、僕がこんなことを知っているのかと言うと、それはこの「いわもとQ」にすっかりハマった僕は、それからしばらくして自分のメディアで彼に取材を申し込み、インタビューしたからだ。そのときはあのIも同行した。今思えばなんでついてきたのか、よく分からないのだけどなぜか、いた。

いつだって冷静な、寡黙な彼女。

 僕はそのころ、週に2回か3回の割合でこの立ち食いそば屋に通っていた。当時の最寄りの店はあの夜Iに連れて行かれた歌舞伎町の店で、当時働いていた(今もいるかはわからないが)妙にしがれた声をしたオバちゃんともすっかり顔なじみになっていた。いや、特に声をかけて話しかけたりはしていなかったのだけど、間違いなく彼女は「あ、こいつまた来たな」くらいは思っていただろうし、僕もこのオバちゃんいつもいるな、と思っていた。愛想というものがおおよそない人だったけれど、カウンターの奥の熟練した手付きは時折香港映画に出てくるカンフーの達人のそれを思い起こさせ、その最低限の(心のこもっていない)挨拶と蕎麦の茹で上がりを知らせる言葉以外を発しない寡黙さに、僕はある種の崇高さすら感じていた。

 今でも覚えているのが、夜の2時くらいに、別の友人とふたりで食べに来たら酔客がふたりでケンカしていて、ふたり揃って警察官に連行されていった場面に出くわしたことだ。僕らは「歌舞伎町24時」的な展開を目の当たりにして、ちょっと興奮していたのだけどカウンターの奥のオバちゃんは何事もなかったかのように黙々と蕎麦を茹でていた。いつものように冷やしたぬきを頼んで、いやあ、すごかったねと友人と話しながら蕎麦をすすっていたら、「もしかして宇野さんですか」と話しかけられた。振り向くとスキンヘッドの男性がニコニコとして立っていた。白のスーツとピンクのワイシャツ、そして夜中なのになぜか暖色系のサングラス。両手にテイクアウトの袋を下げた男は、どう考えても僕と同じ世界の住人には思えなかった。「あ、はい」と恐る恐る答えると、男は手を差し出して握手を求めてきた。「本読んでます、『リトル・ピープルの時代』とか『日本文化の論点』とか」ーー聞くと、彼は近くのファッションヘルスの店員で、スタッフの夜食にいわもとQの蕎麦をテイクアウトに来たらしい。「でも、うちの店はやめたほうがいいですよ。今夜はロクな娘いませんから」ーー尋ねてもいないのにそう言い残して、彼は去っていった。この間、ざっと30秒。僕たちはキツネにつままれたような顔をして見つめ合ったが、特に何かの展開があるわけもなく、蕎麦を啜り続けた。オバちゃんは、その間も黙々と蕎麦を湯がいていた。

宇野常寛(うの・つねひろ)

評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、猪子寿之との対談『人類を前に進めたい』(PLANETS)など多數。立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter

【Story】Vol.8 僕と彼女のいわもとQ

text:宇野常寛
illustration:山口洋佑
photo:阪元裕吾

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